万葉の風を感じて~煙樹ヶ浜で楽しむ歴史とアジ釣りのひととき

日高川河口近くから眺める朝日
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はじめに

風の穏やかな浜として知られる煙樹ヶ浜。私がアジを釣るこの場所は、今から1300年以上前、万葉の歌人・長意吉麻呂(ながのおきまろ)が詠んだとされる「風早の浜の白波 いたづらに ここに寄せ来る 見る人なしに」という歌の舞台とも言われている。

この歌の意味は、「風がないとされる浜に白波がむなしく寄せてくる。見る人もいないのに」。どこか物寂しげな雰囲気を感じさせる一首だ。現代の煙樹ヶ浜も、晴れた日には美しい青空と光る波が広がるが、曇天の日や夕暮れ時には、波が虚しく寄せるこの歌の情景そのままの趣を感じることがある。

私は今日も竿を担ぎ、この万葉の風を感じながら浜へと向かう。

熊野古道と煙樹ヶ浜

煙樹ヶ浜の近くには、熊野古道の紀伊路(きいじ)が通っている。熊野古道とは、古代から続く熊野三山への参詣道で、平安貴族や庶民たちが歩んだ道だ。紀伊路は、京の都から田辺へと向かう道で、田辺から先は中辺路(なかへち)と大辺路(おおへち)の二手に分かれる。此処はその分岐の手前の部分。暫く内陸を歩いてきた旅人が煙樹ヶ浜の南で広く海を望むことができる。

この地を歩いた旅人たちは、海を望みながらどんな思いを抱いたのだろうか。その風景に心を打たれたのか、それとも旅の疲れを癒したのか。万葉の時代の旅人たちも、私と同じように波の音を聞きながら、ここで足を止めたのかもしれない。 実際、この近くには万葉集に詠まれた歌碑が残っている。

「吾が欲りし 野島は見せつ 底深き 阿胡根の浦の 珠ぞひろはぬ」

この歌の意味は、「私が見たかった野島の風景は見ることができたが、深い海の底の阿胡根の浦の真珠はまだ拾っていない」。旅人の心情が表れている歌であり、景色を楽しみながらも、まだ満たされない想いが込められている。釣りをしながらこうした歌に思いを馳せるのも、また一興だろう。

壁川(かべご)崎近くにある歌碑 
※作者の中皇命(ナカツスメラギノミコト)は斉明天皇であるといわれています。

浜辺の情景 〜釣り人の視点から〜

煙樹ヶ浜に到着すると、潮の香りが心地よく鼻をくすぐる。空は高く、遠くには漁船がぽつりぽつりと浮かんでいる。今日はどんな釣りができるだろうか。

アジ釣りは、時間帯によって釣果が大きく変わる。朝まずめ(夜明け直後)と夕まずめ(日没直前)が狙い目だ。今日は夕まずめの時間帯、浜辺に釣り竿を構える。

最初の一投。波間に漂うウキを見つめながら、ふと長意吉麻呂の歌が頭をよぎる。確かに、夕暮れ時の煙樹ヶ浜は、どこか寂しげで幻想的な雰囲気を漂わせている。釣り人の姿が少ない日などは、まさに「見る人なしに」と詠んだ心情そのものだ。

だが、静寂の中に耳を澄ませば、波の音、風のささやき、そして鳥の鳴き声が混ざり合い、自然の交響曲を奏でている。竿先に微かなアタリが伝わり、慌ててリールを巻くと、小気味よい引きが返ってくる。

「よし、アジだ」

夕陽に照らされた銀色の魚体が跳ねる。釣り上げたアジを手に取りながら、この地で詠まれた万葉の歌を思い浮かべると、千年以上前の旅人たちもこの浜辺で魚を釣り、食したのではないかと想像してしまう。

朝の煙樹ケ浜

万葉の時代と変わらぬ風景

現代の煙樹ヶ浜は、もちろん万葉の時代とは異なり、漁港や堤防などが整備されている。しかし、和歌山のこの地域は過度な都市開発から免れ、昔ながらの風景が色濃く残っている。

例えば、釣り場へ向かう道中には「王子跡」と呼ばれる場所が点在している。王子跡とは、熊野詣での際に旅人が休憩したり、神々に祈りを捧げたりした場所だ。特に、日高港湾に流れる「王子川」の名前にも、その歴史が刻まれている。

もし釣りの合間に時間があれば、こうした史跡を訪れてみるのもいいだろう。王子跡に佇み、かつての旅人が見たであろう風景を眺めながら、万葉の歌を口ずさんでみる。そんな楽しみ方ができるのも、煙樹ヶ浜という場所の魅力のひとつだ。

煙樹ケ浜の夕暮れ

釣りと歴史が交差する場所で

釣りは単なるレジャーではない。自然と向き合い、時には思索にふける時間を持つことができる貴重な体験でもある。煙樹ヶ浜の夕暮れ時、波の音を聞きながら釣り竿を構えると、千年前の旅人たちの足跡がすぐそばに感じられるような気がする。

風が凪ぎ、海は静か。まさに「風早の浜」。

今日はどれだけ釣れるだろうか。いや、釣果だけが全てではない。竿を握りながら、万葉の風景を思い浮かべ、悠久の時の流れに身を任せる——そんな贅沢な時間を過ごせることに、ただただ感謝するばかりだ。

明日もまた、この浜で竿を振ろう。きっと、千年前と変わらぬ波が、静かに打ち寄せるのだから。